NINJA TOOLS


クラシック音楽聴衆に捧ぐ 〜今本当に言いたいこと。


私は基本的にはクラシック音楽の愛好家である。


音楽を聴こうと思うきっかけになったのは、ショスタコーヴィチの交響曲第5番だった。ムラヴィンスキーのレコードを父が持っていて、夢中で聴いていた。小学6年の時だ。ビゼーのカルメン組曲やスメタナのモルダウに惹かれながらも、自分の聴くべき音楽はこれしかないと決意させるものがそこにはあった。
それ以降ショスタコーヴィチを究め、いろいろな作曲家(例えばB.A.ツィンマーマンとかモソロフなど)に触手を伸ばしながらもやがてシチェドリンやシュニトケに深く入り込み現在に至るわけだ。


ショスタコーヴィチを本格的に聴きはじめた当時、交響曲第5番以外は限られた種類しかCDとして出回っていなかった。交響曲を全15曲集めるのにいろいろな指揮者のCDに手を出したものだ。ハイティンク、ムラヴィンスキー、ロストロポーヴィチ、ロジデストヴェンスキー・・・

CDが限られているのだから、演奏される機会などもっと限られる。交響曲で例をあげれば5番は演奏頻度が圧倒的に高い。以下順に15番、1番、9番、7番、10番、11番てな具合だ。声楽付きの2、3、13、14番は本当に特別な機会にしか演奏されないし、残りの曲も何故か日にあたらない。
ここ1年で急にのめり込んだシュニトケ、シチェドリン両氏の作品などは、はっきり言ってしまえば年に1回演奏されればいいだろう。シュニトケの場合ヴィオラ奏者のバシュメットが来日しないと駄目だし、日本でシュニトケを演奏しそうな楽団といえばN響くらいなもんだ。シュニトケはそれでもいい方だ。シチェドリンに至っては"カルメン組曲"しか流れないだろう。 自分の好きな音楽を直に聴くこと、私にとっては無上の喜びである。そのような機会を得られれば是非ベストの状態で聴きたい。音の細部も聞き漏らしたくない。

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しかし最近、私はめったにコンサートに行かなくなった。聴きたい曲をいつもCDで聴くようになった。CDだと家でいつでも聴ける利点がある。高い券を払わなくても何回でも聴ける利点だってある。だがそんなことは重要ではない。演奏会を聴きに行かなくなった最大の理由、それは客のマナーの低下である。ここ数年その低下が著しい。

是非うかがいたい。あなた方は何故そんなに堂々と咳やくしゃみをするんですか。ヴァイオリンなどのソロをじっくり聴きたい時に、面白がっているかのように咳を挟むのは理由があるんですか?それはブーイングの意味を込めているんですか?

人間というのは生きている以上どこかに不調を抱えるものである。私だって呼吸器が悪い。咳や鼻水なんてしょっちゅうだ。演奏会の時はベストで臨みたいと思っても体調が下り坂になる時だってある。本当は行かないのが演奏家・聴衆にとっていい事だとは思うが、どうしても行きたい。そういう時は最大限の配慮をするものだ。咳やくしゃみが出そうな時は必ずうつむき加減になってハンカチで口をぐっと抑える。こうすれば咳が出ても音は最小限に抑えられる。

近頃は皆さん度胸が付いたようで、もう演奏家に向かって飛び散れとばかりに威勢よく咳やくしゃみを出している。曲と曲の合間に、間奏曲のように咳が出るのが昔の光景だったが、今は演奏中でも大っぴらにやる。演奏に参加する意思表示なんだろうか。
自分の前後左右の席でそういう事をやっている人間にはまだ出くわしたことがない。大抵別の階の席か反対側の席だ。周りに注意する客もいない。まさにやりたい放題。

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今月(1999.12)N響のコンサートを聴きに行った。ルイージ・ダッラピッコラのオペラ"囚われびと"とフォーレの"レクイエム"の2曲であった。この2曲を1つの曲のように連続して演奏するという面白い試みがあった。

フォーレの"レクイエム"は有名すぎる。ダッラピッコラのオペラはまず馴染みがないだろう。ダッラピッコラはイタリアの作曲家でショスタコーヴィチと殆ど同年代を生きた人だ。第二次大戦で彼は弾圧される側の人間となり多くの心痛をなめてきた。
彼のオペラ"囚われびと"は大戦の時期にかかれた代表作で、自由を求める囚人が看守の心理的な拷問によってやがて死を迎える・・・という話だ。舞台上では最初オペラが上演され、その後死んだ囚人のためのレクイエムとしてフォーレの曲が流れるという進行になっている。
本当に感動した。


しかしここでも許せない行為があった。自分のすぐ近くで眠っている男が居た。静かに寝ているならまだ迷惑ではない(音楽家にとっては侮辱的な行為だとは思うが)。そいつはダッラピッコラの曲ではガーガーいびきをかき、フォーレの頃に眼を開けて聴いていたのだ。
今日のプログラムの意味を全く理解していない。おそらく1曲目は馴染みの無い現代音楽だからということで眠ったに違いない。おいしいものだけつまみ食いをしようとする考え方。こういう者に音楽を聴く資格はない。


以前落語家の立川談志師匠が独演会を開いた時、酒を飲んだ上に堂々と居眠りをこく男がいた。師匠がそれとなく注意してもいっこうに止まず、怒って引っ込んでしまった。主催者がなだめて師匠は一応気を取り直したが条件としてその客には退席願ったという。するとその客は"聴く権利を妨害した"とか何とか言って訴訟を起こした。結果は原告の請求棄却。
到底芸術に接する態度ではない。それ以前に人間に接する態度ではない。今の日本人は誰もがこうなのだろうか。自分は要求するくせに全く相手の立場を考えない輩が掃いて捨てるほどいる。

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ネット上で現代音楽の批評などを見たが、大抵は的外れな珍妙な言語に基づくものだった。「ほれほれ、自分は"クラシック"を良く知っているんだぞー」という人に限って多かった。自分の守備範囲でない音楽だから、ひがんでわけの分からないことを言ってるんだろう、私はそう解釈する。
確かにわけの分からん曲だってある。作曲家の思考が分からないと理解に苦しむ曲は多いと思う。でもそれは作曲家個人個人の自由な表現手段なのである。それすら認められなかった時代が過去にはあった。かつての日本で政府によって奨められた戦意高揚のための音楽・文学・・・・それ以外は皆チェックが入り多くは葬られた。
自由な表現に接することができる、今は素晴らしい時代なのだ。


現代音楽だってちょっと覗き込めば素晴らしい曲がいくらでも転がっている。アメリカの作曲家サミュエル・バーバーの"弦楽のためのアダージョ"、あれだって立派な"現代音楽"なのだ。
数年前グレツキの交響曲第3番が全米ヒットチャートの5位以内にランクされたことがあった。一般的に現代音楽のCDなど売れる枚数は微々たるものだが、この曲の場合口コミで評判が評判を呼び大ヒットとなった。いいものはいいものとして素直に捉える、そこが大切である。初めに"現代音楽"という重厚なフィルターをかけてしまうとそれができなくなる。
ちゃんと世の中にはいいものを見出す人というのがいる。それが古典だろうと現代だろうと。それができないくせにさも知ったかぶりをして、一つの固定されたイメージを作り上げ、それにくくって排斥までする。
何故今の聴衆は、自分の気に入らない音楽や絵画・文学を"頽廃芸術"として葬り去ったアドルフ・ヒトラーと同じ事をしたがるのか?


誰しも音楽の好き嫌いはある。だが嫌いなものの中に優れている部分があったりする。もし優れている部分を全く見出せなかったら暫く距離を置く事だ。距離を置いていろんな方向から見つめ直す事によって初めて馴染めることもあるのだ。私はモーツァルトを余り好きではないのだが、フィガロの結婚序曲を聴いているとやはりこの人は天才だなと思う。私はモーツァルトが嫌いだからといって絶対に排斥などしない。そんな事をすると作曲家のみならず愛好家全員に対する侮辱になるからだ。
最近は身の程を知らない人が多いような気がする。缶コーヒーのCMみたいに。
今ではシュニトケ好きな私だが、最初に出会ってから本格的に聴くようになるまでは5年を要した。音楽を聴く時には焦らずにどんと構えることが必要なのだと思う。

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クラシック音楽の聴衆へ。今一度自分の音楽を聴く態度を考えてみてはいかがだろう。まずはハンカチを携えてコンサートホールに入るべし。気を使って静かに咳をするようになった時から何かが変わっていくことだろう。

1999.12.23
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